
寒いですね><*
さっき夕飯の買い物行ったら
赤い花が咲いてました^^
では今日のとこデス*
『満州事変(1931年)~第二次世界大戦(1945年)』
蒋介石の南京国民政府が
ようやく国内を統一しだしました。
残るは中国共産党が瑞金に建てた
中華ソヴィエト共和国を倒すのみとなり、
両者の対立が深まる中、
満州に駐屯する関東軍は、
奉天事件に続き、
柳条湖事件を1931年9月18日に起こします。
奉天郊外の南満州鉄道を爆破し、
関東軍が一気に満州を制圧したのです。
張学良は追放され、清朝ラストエンペラーの
「愛新覚羅溥儀」を皇帝に建て、
「五族協和」「王道楽土の建設」をスローガンに、
独立国として満州国を建てます。
この一連の事件を「満州事変」と言います。
以前書かせてもらった「開拓者たち」も
日本から肥料のいらない
豊かな土地を持つ満州に移動して
開拓していく日本人たちの話なので
ちょうどこの頃なんだと思います。
さらには関東軍は1932年、上海事変を起こします。
これは満州から中国の目を反らすためでした。
関東軍の目に余る行為に対して
怒りがおさまらない蒋介石は
国連に「どうにかしてくれ!」と訴えます。
これは1928年に第一次世界大戦の過ちを
おかさないためにもと結ばれたパリ不戦条約の、
「侵略戦争禁止」に違反している!と主張するのです。
国連からイギリスのリットン調査団が
中国、満州、日本それぞれに派遣され、
三か月視察を行った結果、
中国、日本に提案を持ちかけます。
満州国を建国した日本も悪いが、
中国の激しい排日運動が招いた結果でもある。
そのため、満州における日本の利権は認めるが、
満州の主権は中国が持ち、自治政府を建てて、
満州の政治に日本も参加することを提案しました。
かなり日本としては有利な提案でした。
にもかかわらず、日本の代表、松岡洋右は
提案を拒否しました。
そして、国際連盟総会で
「満州国は独立国である(つまり中国の主権を認めない)」
と訴えたのです。
他参加国42国は国連の提案に賛成し、
1国(タイ王国)は棄権、
日本1国のみ反対でした。
日本は結果、国際連盟を脱退し、
国際的に孤立化していくのです。
日本は脱退後、「華北分離政策」を進めていきます。
華北の冀東防共自治政府などを国民政府から分離させて、
親日派中国人に支配させ、
満州国の防波堤を作ろうとして行きます。
しかしこれに対して国民政府の蒋介石は
容認してしまいます。
今は「安内攘外」を優先するためにも、
まだ統一したてで国内がまとまってはいなかったため
国の整備の方を優先したかったのです。
そのため日本との戦争より、
共産党打破に打ち込務ことを優先します。
そして、1933年10月、
中華ソヴィエト共和国へ総攻撃を
スタートさせます。
共産党は拠点としていた瑞金を放棄し
1934年10月、北の陝西省の延安を目指し、
長い道のりを移動します。
1936年10月まで続いたこの共産党員の移動を
「長征」といいます。
長征の途中、1935年遵義会議をひらきます。
そして毛沢東ここで中国共産党の最高指導者になり、
八・一宣言を出します。
「中国同士のけんかはやめよう。
国民政府と力を合わせ、日本と戦おう。」
とした「抗日民族統一戦線」を呼びかけたのです。
次第に中国民衆はこの呼びかけに傾いて行き、
1935年12月9日には一二・九運動
「華北分離反対」「内戦反対」を掲げた
大規模デモが起こります。
しかし蒋介石は応じず、依然として
共産党討伐を仕掛けていきます。
ようやく共産党は陝西省の延安につきます。
国民政府軍、張学良と揚虎城が指揮官として
陝西省の近くの西安から、
なおも攻撃を仕掛けていきます。
しかし、張学良は以前柳条湖で日本軍に痛い目を合わされ、
「抗日一致」に対しては肯定的でした。
彼は攻撃を繰り返すうちに、
共産党と共に日本を討ちたい。
とだんだん気持ちが変わっていきました。
そしてある日国民政府トップの蒋介石が
わざわざ西安に張学良と揚虎城を応援しにきた時、
なんと張学良たちは蒋介石を軟禁してしまいます。
これが、1936年に起きた「西安事件」です。
彼らと蒋介石、さらには中国共産党の周恩来もやって来て、
話し合いがなされます。
内容ははっきり明かされてません。
話し合いの結果、蒋介石はとうとう
「抗日一致」を受け入れてしまいます。
そこから日中戦争まではすぐでした。
1937年7月7日、
中国の盧溝橋付近で、軍事演習中の日本人が
中国人に発砲されたということで、
日本軍がすぐ中国領内を攻め入りました。
1937年、抗日民族統一戦線を掲げ、
第二次国共合作が行われ、
蒋介石は日本に対して盧溝橋事件を皮切りに
徹底抗戦を主張します。
またこれを機に共産党の紅軍は
「八路軍」と名を改めます。
日本軍は最初は快進撃を繰り返します。
1937年12月には南京を占領し、30~40万人の
中国人を虐殺してしまいます。
これが南京大虐殺です。
ただ、この事件は中国のプロパガンダによるもので
人数も本当かどうかわからないという説も出てます。
また、逆に日本人居留民が大量に殺されたという話もあります。
どちらにしても忘れてはいけない悲惨な歴史です。
その後も日本は進行し、武漢も占領します。
蒋介石たちは逃れ、
東南アジアからの武器輸送経路「援蒋ルート」の到着地、
重慶に移ります。
ただ日本としては宣誓布告もなされなかった日中戦争を
終わらせたいという思いがありました。
時の総理大臣、近衛文麿も、
「国民政府対手とせず」と言い、
和平を進めようとします。
しかし国民政府側は全く和平に応じようとしません。
その間、重慶から脱出した汪兆銘は、
南京に「中華民国国民政府」を設立し、
日本との和平交渉を始めます。
日本もこれに応じました。
けれども、所詮「中華民国国民政府」は日本の傀儡国家だとして、
中国国民の支持を仰げず、戦争は続行。
そして、いよいよ1941年12月、
イギリスアメリカも含まれての
「大東亜・太平洋戦争」へと発展していきます。
戦火は中国から東南アジア、および太平洋一帯に拡大していきます。
ここでは中国を中心に絞って進めているので、
あまり深く第二次世界大戦はしませんが、
日本はその後、1945年8月15日敗戦し、
第二次世界大戦は終わっていきます。
以上、
かなり複雑で
混乱していた
第二次世界大戦までが
やっとスッキリしました。
本当はもう少し深く
見ていきたいのですが・・;
中国の移り変わりが
ようやくわかってきました^^*

【picture : nishinomiya-hama】
さっきある学校からお電話いただいて、
非常勤させてもらえるかもで、
面接を金曜にして頂けることになって。
緊張だけど、
ありがたいな。って
感じます。
また新たな場所で
新たな人との出会いになり、
感謝になればいいな、って
感じます*
家族から始まり
出会えたすべての人に
できる限り
感謝していける
人生でありたいな、って
感じます*
『国共合作(1924年)~満州某重大事件(1928年)~中華ソヴィエト共和国建国(1931年)』
いよいよ今日は国共合作。
日中戦争間近の
中国の様子です。
前回まで。
ロシアのコミンテルンが
中国浸透を図りだす。
中国国内は反日感情が増え
段棋水政権が弱まったため
日本は満州の奉天省の張作霖を支持しだす。
孫文は中華革命党を改め中国国民党を結成する。
というとこまででした。
*
孫文はその後、
辛亥革命で失敗してしまったけど、
また力をつけ南部軍閥と手を組んで
国内統一を目指しだします。
しかし南部の対立や、裏切りが積み重なり
上手く行かず意気消沈してたところへ、
なんとコミンテルンが孫文に手を組もうと
話を持ってきます。
孫文の国民党は社会主義ではありません。
コミンテルは社会主義を浸透させていく?
ではないのか?っていう疑問なんですが、
結局ロシアは自分が覇権を取ることが何より大切。
主義とか思想よりも、力持ってるとこを味方につけた方が
中国国内支配は早いと考えたんです。
中国共産党はまだ力も弱かったしできたてで。
ロシアの提案は、
「国民党、共産党と合体して、一つになって、
中国全土支配していかないか?
ただし、共産党は党内に残したままで。」
というものでした。
孫文としては国内統一が一番の目標。
そのため力をつけたかったからロシアの提案を受け入れ、
1924年、第一次国共合作
「国(国民党)共(共産党)合作」ということです。
が成立しました。
中国南部広州で中国国民党全国大会が開かれ、
独自の軍を用いて、黄埔軍官学校の蒋介石をリーダーとし、
スローガン
「・連ソ(反帝国主義ソ連と組んで植民地支配を脱そう!)
・容共(共産党を受け入れ)
・扶助工農(中国の国作りをしていこう)」
として進めていくことになりました。
翌年1925年、孫文は国の統一を見ることができないまま
亡くなってしまいます。
その年国内では
五三〇事件が起こります。
上海の日本人経営の紡績工場で
過度の労働に中国人労働者のストライキが起こり、
さらにそれは広州、香港にも広まって
暴動へと発展していきました。
上海にはイギリスの占拠地もあり
イギリス人も多く住んでいたいたため、
日本とイギリスは慌てて軍艦だして鎮圧しようとしたけど
結局だめで。。
民衆暴動はさらに大きくなって行きました。
これに乗っかったのが、蒋介石です。
1926年、国民党は広州に国民政府を設立し、
蒋介石が指導権を握り、北伐を開始します。
(広州からみて、「北」の軍閥を征「伐」する。という意味)
勢い付いた北伐軍は
あっという間に南方の財閥を倒し支配下に置き、
さらに北へ上がります。
首都を中国南部の広州から中国中部の武漢へ移し、
名前も「武漢国民政府」と改め
首班を汪兆銘(孫文が最も信頼してた人)になり、
中央部の征服に入っていきます。
狙うは
イギリスが多く持つ「租界地区」。
「租界」とは、戦争後租借地となった地域で
外国人居留地ですが、土地の賃代は中国政府に渡さないといけないし、
治外法権も認められていないところです。
あのアヘン戦争で屈辱をうけ乗っ取っられたイギリスの租界も
武漢国民政府はどんどん取り返していき、
イギリス人はとうとう屈服しました。
北伐は『革命外交』とも言われるほどものすごい勢力となっていきました。
そんな党内で、問題が起こります。
共産党勢力です。
初期はまだまだ弱体でしたが、
北伐を進める中で共産党も大きくなり勢力が強くなってきました。
国民党軍指導者蒋介石は、そんな共産党を疎んじがり、
1927年にクーデターを起こします。
四・一二クーデター(上海クーデター)です。
武漢国民政府の取った行動は
蒋介石を除名。
怒った蒋介石は、自分で新しく「南京国民政府」を建ててしまいます。
国民党内で分裂が起こったものの、
武漢国民政府も、南京国民政府も互いに弾圧しているのは
共産党。
結局党内で向いてる敵は共産党だったため、
蒋介石を武漢国民政府は追放したものの、
蒋介石の南京国民政府の下に入り、
共産党を最終的に追放してしまいました。
これが国(国民党)共(共産党)分離です。
国共合作は3年しか続かなかったんです。
分離後、共産党の弾圧が進み
共産党は南昌暴動を起こしたものの失敗。
彼らは自分たちの人民解放軍(紅軍)を立ち上げ、
報復できる時を待ちます。
南京国民政府の蒋介石が指導者となり、
北伐はさらに進み、
とうとうワシントン条約で日本に譲られた
元ドイツ利権山東省に入ってきました。
日本政府は慌てて1927年に、第一回山東出兵を行います。
その後も北伐軍は山東省の浸攻をやめず、
日本人9人が北伐軍に殺害されるという済南事件が起こったため
1928年第二回山東出兵をした。
ここで日本軍は北伐軍と衝突します。
この時北伐軍は10万人規模になっていて、
済南地区に住んでた日本人は2000人近くなってました。
彼ら保護のため日本は軍をいれ、
結果北伐軍済南地区を占拠できぬまま北伐を進めます。
蒋介石は奪えなかった憎しみを日本に持ち、
いずれ日本と交戦になるだろう想ったそうです。
日本政府はというと、
このまま北伐軍に関わり戦争拡大することは臨んではおらず、
その後すぐ軍を撤退させました。
北伐は満州の奉天省の張作霖を残して
とうとう中国全土を統一してしまいました。
清朝で崩壊し各省の軍閥紛争時代が終わろうとし、
帝国主義がスタートしようとしました。
奉天省の張作霖も、もうダメだとして、
奉天省から南の本拠地北京へ逃れることにしました。
その途中でなんと彼の乗ってた列車が
爆破されたのです。
これが1928年に起こった
中国で言う奉天事件(張作霖爆破事件)
日本では満州某重大事件と言われてます。
この事件を起こしたのが、
中国国民政府でもなく、日本の政府命令でもなく
なんと、張作霖を支えていた日本の現地軍、
関東軍でした。
関東軍とはのちの満州鉄道の原型の長春から旅順までの鉄道と
遼島半島の権益を守るために、
現地に駐屯していた日本軍です。
彼らはなぜ日本が支持していた
奉天省の張作霖を殺してしまったか、
日本政府は先の山東出兵でもあったように、
中国国内での戦争拡大は望んでいなかった。
つまり、関東軍は勝手に満州内を混乱させ、
満州国を軍事力で支配してしまおうと
日本政府を無視して爆破させてしまったのです。
この段階で、中国国内の日本軍と
日本の日本政府との想う方向も変わってきています。
しかし結果的に関東軍の行動は失敗に終わります。
張作霖の息子張学良が殺された張作霖の跡をついで、
中国国民党側についてしまい、
満州は国民政府側についてしまいます。
さらに、独立していた東トルキスタンも国民政府側につき、
とうとう清が倒れ事実上解体してしまっていた
帝国が再び一つにまとまって行きました。
ただ、一つ気になる問題点が
あの、弾圧されていた
中国共産党です。
彼らは1927年の弾圧後南昌暴動を起こし鎮圧されましたが、
南の井崗山を根拠地にして、
路線変更をしてました。
これまでは組織の中心が工場労働者でしたが、
農民中心にしていくのです。
なぜか。
この時代の中国の人口の大半が農民だったため、
ここを味方につけることで強まると考えました。
地主の土地を取り上げ、農民たちに分け与える
土地改革を行い、彼らの支持を得ていきます。
この方法は成功していき、
1931年中華ソヴィエト共和国を建国してしまいます。
首都は南の江西省の瑞金で、
主席を毛沢東とし、
結成した人民解放軍(紅軍)を拡大していきます。
以後、中国国内で
人民解放軍(毛沢東)対 南京国民党(蒋介石)
そして反日感情の深まりがどうなるか、
といった感じで。。
いよいよ
過去の負の遺産となる
第二次世界大戦に
入っていきます。。
『1914年第一次世界大戦~1919年パリ講和会議』
1911年、辛亥革命が終わり、
袁世凱が政権を握りました。
しかし軍閥の力が強くて、
軍閥闘争の時期が続きます。
ヨーロッパでは1914年、
第一次世界大戦が勃発して、
列強はアジアから目線がそれてる時代で。
日本はその隙を狙って、1915年、中国に
「対華二十一カ条の要求」を出しました。
これは、第1号から第5号で構成されていて、
1号から4号は旅順、大連の租借権の延長や、
第一次世界大戦でもしドイツが敗戦したら、
ドイツの利権の青島を日本に譲るなど、
権益権が変わるとか、延長とかで、まだそこまで酷いものではないけど、
最後の5号が
「中国における、警察、財政、行政に対して、
日本人顧問をつけること」
というので、乱れてしまっている中国国内を
日本の政府で整えるっていう名目だけど、
実際は日本の植民地化を目指した要求で。。。
この5号にはさすがに袁世凱も黙っては居られず拒否し、
1から4号までは要求をのみました。
中国国内では日本に対して反日感情が生まれて、
受け取った1915年5月9日を
「国恥記念日」として、嘆き悲しみました。
イギリスアメリカも、自分たちが戦ってる隙に、
日本は侵略を試みるのか!って、日本に対して不信感を抱きだして。。
こうして日本への世界の目線が
段々おかしくなっていきました。
日露戦争の敗戦国ロシアは、
国内がやはりボロボロで、
300年続いていた帝国支配も、
貧困の労働者たちによる「プロレタリアート」と言われる、
労働者の改革が起こり混乱していきます。
そして1917年、ロシア革命です。
ボリシェヴィキがロシア共産党を作り、
1918年3月、首都をモスクワに移して、
第一次世界大戦から離脱します。
7月に開かれたロシア・ソヴィエト会議では
初の憲法を採択して、全国にソヴィエトを設けて、
18歳以上の労働者・農民・兵士に選挙権を与えて
男女同権を認めたけど、共産党以外の政党は禁止されました。
彼らは、コミンテルという社会主義組織を作り
帝国主義国から労働者の自決や、植民地国の解放を
しよう!と世界を指導していこうとします。
コミンテルの指導者としてアジア諸国、
国を動かそうとするのですが、
裏を返せば、ロシアの世界制覇を目指す動きに他ならないのです。
そのため、この極端な動きに1918年11月にはソビエトに反対する
帝政派の反革命軍が作られたり、
ソビエトが帝政時代の債務を放棄したため列強も強い反感をもち、
ソヴィエト打倒に彼ら反革命軍を支援し、ソ連打倒のため出兵します。
これが1918年から1920年までのシベリア出兵です。
日本もこの出兵に参戦しました。
なんと約半数が日本兵でした。
けど、シベリア出兵は上手く行かず、連合国は1920年には
撤退するんだけど、日本は退かず、1922年まで残ります。
これに対しても列強の反感を買います。
対華二十一カ条で中国支配を、さらにロシアまで支配をしようとしてるのか。
と、日本は想われてしまいます。。
1918年、シベリア出兵の途中で第一次世界大戦は終わり、
1919年、戦後処理のためパリでパリ講和会議が開かれ、
アメリカ大統領ウィルソンが「十四カ条の平和原則」を主張します。
中国は、第一次世界大戦に参戦することで、
植民地から逃れられるのではと考え、終盤に参戦しました。
この講和会議にも軍閥代表者が参加して
植民地化をやめてくれと訴えたり、
日本の対華二十一カ条の要求の差し戻しを願い出ました。
日本は日本で、二十一カ条の要求を戻されたくないと拒否して。。
中国、日本両者の願いをどうするか、
イギリスアメリカは悩んだんだけど、
イギリスは
「このまま中国の要求をのんで、民族自決の力が働いて暴動になっては困る」
として、
またアメリカは
「今後作る予定の国際連盟に日本を加盟させたい」
という思いがあって、両者の意見が一致し、
日本の意見を採用しました。
そうして出されたのが「ヴェルサイユ条約」です。
山東半島問題ははここでは未解決で1921年のワシントン会議で解決します。
こう州湾は中国に返還されるけど、満州の租借権の延長は認められました。
これを聞いた中国国民は本当に怒ってしまって、
1919年5月4日、暴動を起こします。
これが「五四運動」です。
これによって軍閥は民衆の恐ろしさに圧倒され、
ヴェルサイユ条約の調印も拒否します。
これを見た孫文は大衆運動がどれだけ政治の原動力になるか、
重要性を知り、中華革命党を改め、中国国民党を結成し直します。
中国国民党に対してもう一つ強い党がこの頃出来上がったのですが、
それが中国共産党で。
第一次世界大戦以前から中国国内のある一派に、
「こんなか弱な中国になってしまったのは、儒学精神がダメなんだ」
と、根本から儒学を批判する派が出てきました。
中国何千年の歴史の支えとなった思想儒学を消そうとしたのです。
これまでにも近代化を進める上で儒学とどう対応させていくかで、
変革運動の康有為も、科挙を廃止を訴えたりはしたものの
それによって儒学精神を消すというわけではないと、
儒学を消すということはどこかでしてはいけないという
民族性っていうものがあったのか、
全面的に批判する人はいませんでした。
しかし彼らは違っていて。完全否定するのです。
一体なぜそのような思想になったのか、
それはロシア革命の影響がありました。
社会主義で近代化を完成したロシアのニュースは
全世界に広がり、
彼らはロシアのした改革こそ近代化の最先端だと考えていくのです。
中心人物となった陳独秀は『新青年』という雑誌をだし、
ここで言葉を発していきます。
胡適はこの雑誌の中で、自分たちの思想をどのように表現したら
人々に伝わっていくかを綴り、
それを実践したのが魯迅でした。
彼は『阿Q正人』『狂人生活』などで労働者社会を書いていきます。
また、陳独秀や李大ショウで、北京大学にマルクス主義研究所が主催されました。
ここでロシア革命の背景となった、
マルクス主義思想を教えていきます。
そして戦後、ロシアから中国に1919年カラハン宣言がされます。
これはロシア外務省とロッキーの代理人カラハン
が中国との不平等条約を解消するというもので、
帝国主義だったロシアが、自ら植民地化を放棄したというので、
中国の社会主義者はロシアをなお好意的になり、
彼らに指導を求め、
コミンテルの指導下、中国共産党を作ります。
日本が支えていた軍閥は親日派の段棋瑞でしたが、
このような世の中になり、親日派のため弱体化していき、
段棋瑞の政党も枝分かれしていきます。
その中の奉天派が力を持っていったため、
指導者張作霖を日本は支持していき、
中国に入り込もうとして行きます。
*
第一次世界大戦後、こうして社会主義という新しい思想が
ロシアから世界に浸透していき、
中国も孫文を中心にした中国国民党、
陳独秀などから生まれた中国共産党が誕生して
今に繋がる中国が誕生していきます。
最初私が中国に興味を持ったのは、
テレビをみて、反日感情を持つ人々が関東軍を解放したこと、
社会主義と儒学精神という、相反した思想が
一体どのように歴史上で絡み合ったのか、
何千年の歴史ある儒学精神を呑みこんでいった
社会主義とは一体どんなものか
日本は明治維新でもって
武士たちが完全負けてしまい、
新政府は列強の西洋化をそのまま受け入れ、
思想としても残すことなく近代化をまっすぐ進んで行ったけど、
そこを拒否して歴史を培った
儒学精神を重んじた中国は
私はとても深さを感じて。
けど、また違う改革の方に動いて行った中国の
危うさも感じ。。
見えない世界だからこそ
とても心惹かれ、
見えない世界が
本当に動かしてるんだな、って
年表でもなく、
起こった事柄でもなく、
勉強すればするほど
人の思惑
憎悪
愛情
絡み合いが
歴史を作ってるって、
すごく
感じます*

家の前の
坂の上から
冬の空は綺麗^^
必死で書いたのに
今日の分消えちゃって
泣きそう。。
また明日かきまーす。
読んでくれてはる人
ありがとうです。
今日も一日
お疲れさまでした*

最近走ってます♪
夕焼け小焼け☆
『日清戦争1894年~日露戦争1904年~辛亥革命』
日清戦争で負けた中国は欧米に中国分割が始まって。
満州をロシアが九竜をフランスが、イ海衛をドイツが、
広州をイギリスが、占拠して。
この時アメリカは「門戸開放」「機会均等」を言って、
自分の征服できるとこがないから、中国分割を反対してて。
中国内では1900年に義和団事件が起こります。
民衆が反乱を起こしていき、
西太后は彼らに乗っかって、列強に宣戦して。
中国内の占拠してる列強は
イギリスは南アフリカ戦争で、アメリカはフィリピン抵抗運動鎮圧のた
兵を出してるため、
ロシア日本を中心に中国の義和団鎮圧を図って、
結果反乱は抑えられ、中国は半植民地化してしまいます。
1901年には北京議定書が列強や日本から出され、
多額の賠償金が請求され、外国軍の駐屯権も言われて。
ロシアは満州に居座り、狙うは朝鮮で、、
日本は危険を感じて、
1902年に日本はイギリスと日英同盟を結んで、
複数国相手の戦争の時は
助け合うって約束の同盟結んで、それを支えに
ロシアの南下政策を止めるため、妥協策『満韓交換論』をロシアに言います。
内容は、満州はロシアに、韓国の事は口出しさせないようにして。。
けど、ロシアは応じず、結局日露戦争に進んでいきます。
小国日本は勝ったけど、死者が10万人近く出てしまい、
しかも戦費など財政はボロボロに。。
ただ、この戦争で、これまで白人優位の世界の流れだったけど、
黄色人種が見直されて、列強も恐れだして、アジア諸地域の民族運動が高まって、
その後、ポーツマス条約が結ばれて、
日本全権は小村寿太郎、ロシアはヴィッテ、アメリカのセオドアローズベルトの仲介で、
北緯50°以南の樺太を日本のものに、
南満州鉄道、遼東半島の租借権を日本はもらったけど、
賠償金はもらえなかったから、
日本人たちは怒って日比谷焼き打ち事件という暴動を起こしました。
1907年には日露協商が結ばれ、
ロシアと日本で満州を南北で分断することが決まって、
アメリカは先のポーツマスで仲介に入ったのは、
満州の利権を得られるようになるためで。
けどこれで得ることは不可能と解って、
アメリカで日本人に対し日本人移民排斥問題とか起こって。
その後、英露協商が結ばれて、
アフガニスタンはイギリス保護国に、
イランはイギリスロシアで分割し、
チベットは相互不干渉をとり、ロシアは南下を諦め、
西のバルカン半島を狙いだします。
これが第一次世界大戦に繋がっていくわけで。。
もっとも日露戦争で火がついたのが、
中国でのナショナリズムで。
清朝を倒してしまおうと、清の孫文が興華党、中興党、光復党の三つを大同して、
日本で中国同盟会を結成しました。
この頃の日本は大アジア構想を唱える人も居て、
アジア全体で強くなって
列強に立ち向かっていこうって考え方だったから、
中国の独立も応援する人もいて。
けど、孫文たちの運動は軍事力を持っていなくて、
民衆を基盤にしてなかったから、爆発的なモノにもならなくて、
利権ていって、分割の時にとられてしまった資源の回復に対しても
働きかけをしなかったから、利権回復を願ってるお金持ち層にも支持されず、
結局運動はこの時は何度も失敗に終わってました。
そして、反乱鎮圧されたあと、
光緒新政っていう、清朝最後の革命が興ります。
科挙を廃止して、1908年、憲法大網を作って、立憲君主制を狙います。
けど、同年光緒帝も西太后も亡くなり、中国最後の皇帝
宣統帝が就任します。
彼は国会開設を宣言して、軍機処っていう、意思決定機関を廃止して、
責任内閣制をすること決めるけど、
今さらで。。
政策をうたっても、結局清朝内ってもうガタガタで、
まず財政難。。
お金ないから資本家が運営してる私鉄を国有化にして、
それ担保にして、列強に返済していこうとするんです。
さらに、不平等条約で関税自主権なくなってるから、
税収がなくて、国内からは取って行くもんだから、民衆たちはドンドン貧しくなって、
金持ち層と、民衆層、どちらからも反乱が起こっていきます。
もう清はボロボロです。。
四川省で四川暴動が始まって、中国同盟会が再び便乗。
反乱を起こして結果、1911年10月10日に武昌蜂起がおこり、湖北省が独立を宣言。
続いて中国内の14の省が次々と独立をしていき、トップが南京に集まって、
革命のためお金を集め海外に飛んでいた孫文が帰ってきて、
中華民国をたて、臨時大統領に就任しました。
これが1911年に起こった辛亥革命(第一革命)です。
ただ、これに対して清朝は許さず、
李鴻章の部下の、洋務政府の袁世凱を総理大臣に起用し、対抗しようとして。
けど、孫文は水面下で、袁世凱に清を捨てたら臨時大統領の職を譲ると伝え、
袁世凱はそれに応じて宣統帝を追放して
臨時大統領になり、1911年2月、とうとう300年続いた清朝は幕を閉じ、
アジア初の共和国が誕生しました。
けど、各地で立った軍閥はまとまらず、
袁世凱はまた帝国を作ろうとして自分の共産党を多数党にするために
選挙を行って、
けど、勝ったのは孫文の国民党(元中国同盟)で。
袁世凱は孫文と近い同じトップの宋教仁を暗殺してしまい、
孫文は袁世凱を倒そうと反乱を起こしたけど(第二革命)
破れて日本に逃亡し、
1914年、革命をいつか起こすため、中華革命党を作って。
結局袁世凱に乗っ取られた感じで辛亥革命は終わって行くわけなんです。。
この前辛亥革命をNHKでやってたので
また映像で見てみます。
孫文って言う人は、すごく頭のいい
素晴らしい人って、日本のこの頃の政治家も評価してたって言ってて。
今日は頑張りましたワタシ。
フ~。。ZZZ*
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