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オドリアカソ

2012.3.29



facebookしだしまして。。^^

使いやすくてイイですね^^



『藤本望』で登録してます^^
良かったらよろしくお願いします*


# by odori-akasou | 2012-03-29 20:29 | Trackback | Comments(0)

Have a wonderful your day's


























4月からの準備と
授業のためもっと深めたいで、
ここに手が出せなくなってしまってます><



もしも楽しみにして
読んでくださってた方いらしたら、
本当にすみません。。


また落ち着いたら4月から書かせてもらいます^^



今は明治時代を深めてます。
すごくすごく人の動きと流れを感じて、
民権を求めて動いた人々と、
薩長で変わらず権力を誇示し
欧米に食いついて行く
歴史の過渡期を見つめられて、
楽しいです^^



そして、
塾で見ていた子どもたちや
一緒に働いた方々ともお別れもしていってます。


毎日泣きそうになりながら、
帰り道歩いて帰ってます。


久しぶりに、
別れの三月、
出会いの四月って言う感覚
味わってます。


いくつになっても慣れないし、
いくつになっても淋しいし、
いくつになっても素敵な感覚だな。。って
感じてます*


心が正しく動いてくれてることも
本当にうれしくて、
今、生きてきた中で
漠然とした
幸せを感じれる毎日で。


関わってきた人たちの
辞めないでの言葉とか
この二年もまた、
ここで生きて良かったって
感じさせてもらえます。



友だちが
近況報告のメールや電話を
くれることにも感謝というか、



みんなも新しい人生を
また歩んでるということに
励まされ、


こっちに帰ってくること決まって
関西で迎え入れて
お帰りなさい会をしようとか。

4月から海外行く友だちに
頑張ってねの会して。



また新しい環境で
新しい環ができていく
喜びも感じて。


こういう感覚
素敵だな。て感じます。


昨日キムタクが東北の中学生に
贈ったものに、
「可能性は自分次第」
て書いて言葉を心から噛みしめられて。


私もまだ新しい自分と出会って、
どこまでいけるか
挑戦してたいな、って
思います。



20歳前半までが
解らずがむしゃらの挑戦だったら、


30歳手前の今は
仕事も恋愛も
たくさんの人の価値観も。。
出逢い別れたくさん経験させてもらって、


いろんなこと見てきて、
冷静な気持ちの部分も上がる気持ちの部分も、
自分の心の動きを解ってきたけど、


それでもやっぱり
心真っ白にした時、

挑戦してみたいと思える感覚が
沸いてくるのは、

良かったな。て感じて。




『最後から二番目の恋』って
今キョンキョンが連ドラでやってて^^
すごく励まされます。
ほんとそれ~って。笑



明日のための今日になるよう
見守ってやってください。。って、
毎日父親にお線香あげさせてもらう習慣も
できました。


毎日手を合わすことの
意味がわからなかったけど、

こういうことかって感じます。


願う未来があるから
人は手を合わせられるのかな、て。



たくさんの人が、
日々の大切な人との移ろいを


味わい、幸せ感じてもらえる日々を
送っていただいてること。。


本当に心から

日々を愛し
いつくしむ心が
たくさん在ることを


心から

祈ってしまいます。




3月11日過ぎて数日。

また一回りして来年の今
あぁ。って思い出すのでなくて



向こうの方の
心は常に同じであり、
日々を立ちあがろうと
戦われてるということ

これから世代を超えて
戦われて行くこと



忘れずいたいって



心から思います。



皆さんの心が
少しでも早く
幸せだと
それでも生きてて良かったって

無理なく、
強がらず
沸いてくるように
感じてもらえる日が

1日でも早く来ること、



心から
心から思ってしまいます。





絵は、カードにしてみました。
子どもたちに最後に渡してます。


18日にはお別れ会してくれるので、
出逢ったみんなに
渡せたらと

思ってます*


絵であれ
歴史であれ
表現することで


何処で在っても
誰に向かってでも
いくつになっても
表すことに


不安思わないように
よく見て感じて

できる限り適切に
私の思うもので



誰かの心に
どこかの部分に
光を灯せるような


出逢えてよかったと
昔私が言った人たちのように
思ってもらえる人間に



なっていきたいって


感じます。




# by odori-akasou | 2012-03-14 00:39 | Trackback | Comments(2)

2012.3.8




『江戸時代初代将軍徳川家康政権(1603年~1614年)』



今日は家康です^^


家康って人はイロイロ言われますが、
私はすごく日本人らしい人のように感じます。
保守的なところ、
人を使うのが上手い人という感じで、
これまでの信長や秀吉は、
感情の起伏の激しさとかすごく感じるんですが、、
家康は耐えて耐えての人だな。。って


あとで書きますが、家康の遺訓がすごくいいというかで、
私は好きですが。。笑


三河時代から今川の人質になって苦労を重ねてきた人の
やっぱり言葉なんだな。。って感じました。
だから人望も厚かったという感じがします。

では今日の本題に入ります。


秀吉が1598年に亡くなって、
慶長の役からも帰って来ました。
秀吉は亡くなる前に家康を呼んで、

「秀頼(息子)が大きくなるまでは政り事は家康に任せる」
と伝えました。

なので、家康が大老の中でも権力を持ち、
進めようとし出したので、それを見ていた石田光成は
家康を止めようと戦争を仕掛けます。


光成は秀吉が一番信頼していた家臣で、
彼は御奉行として秀吉につかえてました。


光成は豊臣家が天下を握り続けることを一番と考えてました。


そして1600年関ヶ原の戦いが起こります。
光成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして、
家康に戦いを望みましたが、
結局負けてしまい、光成は斬首刑となり、
秀頼も60万石の一国の大名に落とされてしまいます。


こうして家康の政権がスタートします。
家康は外国との貿易を熱心に進めていった人です。
1616年に亡くなってしまうので、
実質江戸での政権を握れたのは本当に少なかったのですが、
16年間で対外活動がやっぱり頻繁だな。と感じます。


この16年間を見ていきます。


1600年に、リーフデ号事件が起こります。
ヨーロッパの船が、豊後に漂着します。
乗組員はウィリアム・アダムスというイギリス航海士と、
ヤン・ヨーステンというスペイン人でした。


家康は、この二人を政治顧問にします。

そして1603年に後陽成天皇から征夷大将軍に任命されます。

翌年の1604年には糸割符制度という制度を
発布します。

ポルトガルとの貿易は
種子島にポルトガル人がきた時から
続いているのですが、
琉球にとって代わって中国やインドネシアの中継になっていました。

中国から仕入れた生糸を日本の商人に売っていたのですが、
売られた商人たちは、自分たちで勝手に値段をつけていたので、
価格に差が出てしまい、独占してしまう者も出てきてました。

そこで、京都、堺、長崎の三商人で価格を決めてから、
他の貿易商はその値段で売るという仕組みにしました。

その後、三商人から大坂、江戸が入り、五商人となっていきます。


そして同年、家康は朱印船貿易をスタートさせます。

朱印船とは義満が行っていた勘合貿易と似てはいるのですが、
より一層独占色が強くなります。

家康が認めた豪商や、有力大名に朱印状を渡し、
それを持って外国へ行き貿易を進めていきます。
だいたい九州の大名が多く、
後はこの時代の豪商がいました。

例えば、肥前の平戸藩初代藩主松浦鎮信や、肥前の有馬晴信、
鹿児島の島津家久などです。
また豪商は角倉了以や茶屋四郎次郎、
末吉孫左衛門、末次平蔵などでした。


そして、彼らはシャム(タイ)やルソン(フィリピン)
アンナン(カンボジア)などに行き貿易を行います。


成功する者は現地に在住し、チャイナタウンのように、
現地に日本人が暮らす日本町を作っていきます。

山田長政も現地駐在で成功していった人でした。


このように家康は征夷大将軍になってすぐから
こうして貿易を積極的に行っていきます。

しかし翌年1605年、
家康は征夷大将軍を息子秀忠に譲ってしまいます。

そして自らは大御所となり、
実権は持ったまま、中世の院政のような形をとります。
これは生きている間に位を譲ることで、
征夷大将軍は徳川家が継いでいくことを
世間に知らしめるためだと言われています。

大御所になり駿府の城に移りますが、
なくなる1616年までは彼の政策は続いて行きます。


家康はまず、秀吉が播いてしまった
朝鮮との関係悪化の修復をしていきます。


1607年に、辰申丁酉の倭乱で朝鮮から日本人が捕まえてきた
朝鮮人の捕虜を返すので
来てもらえないかと朝鮮王朝に頼み、
承諾してもらえました。

こうして国交が開かれました。

1609年には、まず鹿児島の島津家久に
琉球を制圧するよう命令します。


この時代、琉球は明に対して朝貢の姿勢で
交易をおこない明にとっての属国でした。

この島津氏の制服によって、琉球は日本に対しても属国となり、
二重支配の体制になります。

ただし、家久は琉球の宗氏に対して
84万石を与え、
独立した国と扱い、琉球が明との貿易で得た収益の一部は
日本の属国ということでとりあげてしまうということをしていきます。


これ以降、明から琉球の国王が任命されたら、
それを江戸の幕府に報告させるための謝恩使や、
江戸幕府で将軍が代われば、あいさつに来させるための慶賀使という使いを
琉球から出させるようになっていきます。

これは将軍の権威を見せつけるためと言われています。

国交をひらいた朝鮮から
捕虜を引き取りに来る船が1609年やってきます。
以後朝鮮との取引も再開し、
窓口は対馬の宗氏がすることになりました。

最初三回は捕虜を引き取るものでしたが、
それ以降は、朝鮮通信使として、幕府の将軍が代わる度に
使節が来るようになっていきます。


同年、オランダが肥前の平戸に商館を開きます。
その後イギリスもやってくるのですが、
これまでのポルトガルとスペインとは分けるために

オランダイギリスを南蛮人に対して、紅毛人と呼び、
彼らはキリスト教の新教、つまりプロテスタントです。

南蛮人であるポルトガルスペイン人は旧教のカトリックでした。


1610年には、さらに秀吉のまいた種である、
サンフェリペ号事件の
24人殉教のせいで、スペインとの国交も回復していなかったため、
田中勝介を、スペインの副国であるノビスパン(今のメキシコ)
に派遣します。

副国とは、スペイン君主の代理としてアジアの植民地を
統括する者の拠点であり、田中勝介は日本人で初めて、
アメリカ大陸に渡った人間でした。

彼は前年に日本に来ていた前ルドン総督、ドン・ロドリゴが、
台風のせいで日本に戻って来ていたため、
彼が国に帰る船に同船してノビスパンへ行きます。


この時、スペインからの親書を持ったノビスパンの使いが
翌年田中と帰ってくるのですが、
その人と家康との交渉がうまくいかなかったため、
結果的にはスペインと交易はうまくはいきませんでした。


このように、家康は対外政策を頑張るのですが、
翌1612年、幕領直轄地のみ禁教令を出します。
当初は家康は秀吉とは違い、
キリスト教は公認していました。


そして1613年、東北の伊達政宗が、
家康にスペインとの国交を仙台藩として行きたいと申しで、
スペインに派遣することの許可願をします。


家康は認め、政宗は家臣の支倉常長を
スペインに渡らせます。
けれどもこれも良い成果はあがらず終わってしまいます。

この年、禁教令はさらに進めます。
南蛮人が、日本人を捕まえ、自国に売りつけているというような事件が起こり、
それを聞いた家康は、直轄地だけでなく、全国に禁教令をだし、
キリスト教を排除していきます。


高山右近など、それでもキリスト教を辞めなかった大名に対しては
マカオやマニラに国外追放をしていきます。


そんな中で、オランダに続いて、
イギリスがやってきて、
平戸に商館を開きます。そしてイギリスとも取引が始まります。

こうして対外とのやりとりを進めていきますが、
国内の大名として気になる存在が
豊臣家でした。

1614年、大阪冬の陣をしますが、
時間がないので、ココから次回します^^*





以下、家康の有名な遺訓です。
心に響いてしまいまして載せさせてもらいます。。



「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、 こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。 勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。 及ばざるは過たるよりまされり」




# by odori-akasou | 2012-03-08 14:38 | Trackback | Comments(0)

2012.3.7





『秀吉天下統一【太閤検地】(1582年~1598年)』





今日は秀吉の政権です。



信長が亡くなり、そのことを知った秀吉は急いで京都に帰ってきます。
光秀も秀吉を防ぐために摂津と山城の境までいき、そこで衝突します。
1582年『山崎の戦い』で秀吉は明智光秀を倒してしまいます。

光秀は三日天下と言われてます。



そして1583年、信長の重臣柴田勝家を
『賤ヶ岳の戦い』で破り、
1584年、『小牧・長久手の戦い』で
徳川家康が織田信雄と手を結び、秀吉に攻め入ります。
しかし、両者決着つかず、協力者となっていきます。

1585年には正親町天皇から関白を授かり、
同年、長宗我部元親を破り、四国を平定します。

1586年には後水尾天皇から太政大臣に任命されます。

この年『惣無事令』を出し、
天皇から全国政治を任されたということで、九州に
戦争禁止令をだしましたが、島津義久は聞かなかったため、
結局、1587年屈服させ九州も平定します。

平定後、『バテレン追放令』をだします。


「バテレン追放令」は、
今後宣教師を認めず、日本から追放するというもので、
宣教師は20日の間に日本から出て行きなさいといったもでした。

ただし、貿易はそのまま続けたかったため、「黒船」といわれる
貿易船は認めましょうとしました。


しかし、ヨーロッパは布教も貿易もどちらも一緒にするつもりで
日本に来ているため、実態は同じでした。
「私は貿易商です。」
といっても、キリスト教者だったりするわけで、


結局のところあまり効果はなかったようです。



ただ、キリシタン大名の大村純忠などは
自分の長崎をイエスズ会に寄付してしまったり、
播磨の高山右近もキリスト教をやめなかったため、
領土を取り上げられてしまいました。


しかし、庶民のキリスト教は別段禁止もしてませんでした。



同じ年、京都に広大な「聚楽第」という邸宅を作ります。



そして翌1588年、『刀狩令』が出されます。


「刀狩令」とは、農民は農民、武士は武士、どちらか自分たちで
はっきり決めなさいといったものでした。

戦国時代がこれまで続き、農民でも武装して地侍などになり
帯刀していた時代が続いていました。

なので、しっかり身分をもう一度はっきりさせ、
農民と決めた者は刀を捨てて、その刀は方広寺の
仏像に使うということで、刀を集めました。

そして「兵農分離策」を進め、
武士と農民の居住する場所も分離していきます。
農民は農村に、武士は城下町に集められます。



1590年、バリニャー二が二度目の来日をします。
彼はヨーロッパから活字印刷機を持ってきます。
これまでは木の板に彫っていましたが、これによって、
彫るのではなく一文字一文字を組み合わせて行う印刷術が浸透します。
キリシタン版と言われるものです。



小田原の関東最大の北条氏を平定し、
伊達政宗も降参して東北も平定されます。
さらに秀吉は、家康を駿、遠、三から関東へ「関東移封」させ
京から遠ざけてしまいます。




こうして秀吉の天下統一が果たされます。




その後に出されたのが、
1591年の『身分統制令』と『人払令』です。



『身分統制令』は東北平定によって、
武家奉公人といわれる、武士の部下や使用人たちが
農民になったり、町人になったりした。


そのため、天下統一後、新しく町人や百姓になったものに対して
身分をかえることは許さず、農民はあくまでも
田畑を耕作しなさい。としたものです。



また「人払令」は、
人口調査のようなものをして各身分を固定していくもでした。




そして秀吉は対外政策に乗り出します。
彼はポルトガル、スペイン、台湾、琉球、中国、朝鮮に対して
「朝貢」を要求していきます。

1592年、朝鮮出兵をし出します。


『文禄の役』(壬辰倭乱ともいわれます。)
肥前に名護屋城を構え、
そこを根拠地に各国から大名を呼び、出兵させていきます。


しかし朝鮮の李舜臣の率いる水軍が強く
かなり秀吉は苦しみます。
彼を苦しませたのは「亀甲船」と言われる船でした。

どちらも決着がつかず1596年に日本は撤退し、
講和をしても両者強気でまとまりません。



その頃、『サンフェリペ号事件』が起こります。
土佐に漂着したスペイン人が、保護を要求してきたため、
秀吉は布教のため領土を拡大する気かと起こり、


乗っていた信者や宣教師26人をはりつけて
死刑にしてしまいます。
『26聖人殉教』ともいいます。



そして朝鮮にも秀吉はさらに戦争を仕掛けていきます。
1597年『慶長の役』(丁酉倭乱)が起こります。
この時大名たちはもうやめようよ。。と呆れてた者が多かったようです。


そんな中1598年、秀吉が亡くなってしまいます。



秀吉の勢いで進んでいた朝鮮出兵だったため、
五大老の徳川家康は、秀吉の死と共に
朝鮮出兵に出ている大名たちに戻ってくるよう命令し、
終わりました。


この朝鮮出兵では
朝鮮に行った大名たちが優れた技術者の朝鮮人を連れ帰って来て、
城下町に住ませその技術を広めたため、朝鮮の文化が入ってきます。


今現在の日本の優れた焼き物が多く、「お国焼き」と言われる、
大名たちが自分たちの国で窯を作り焼かせていきます。
「有田焼」は朝鮮の陶工技術が人ごと伝わって来て、
そのまま日本で進化したものです。
他にも薩摩焼や、上野焼きなどがあります。


また、綿花栽培も伝わってきます。
戦国時代から日本でも始まっていましたが、
朝鮮出兵後、本格化されていきました。



また、キリシタン版とは違う活字印刷術が伝わり、
秀吉は後水尾天皇に戦利品として献上し、
天皇命令で慶長板本を作らせました。




秀吉の政策として大切なのが、1582年から始まった、
『太閤検地』です。

これまでの荘園公領制を
完全彼は新しい形態へと移行させていったからです。

今日は『太閤検地』を詳しく見ていきます。



これまで差出検地と言って、
自己申告で大名たちに治めている土地を申告させ、
それに見合った銭で高を計って渡す、「貫高制」が使われていました。


また、本領安堵として官位を渡し、荘園公領制のように、
現地に荘官がいて、その上に領家が居て、その上に本家が居て、
職が重なって差額の「作合」が収入になるなどという形で、支配者の下に
人がいて、それがまた支配者となり、その下に。。といった感じでした。


これらを全て秀吉はやめます。

つまり、秀吉は、土地の働いて年貢を払う者を直接統治します。



そのために、まず「検地帳」を作ります。
秀吉のもとから国ごとに検地奉行という者が派遣され、
間棹で田や畑だけに限らず、家のある土地も宅地も、全ての土地の大きさを計ります。


計りの基準を畳約一辺を1間(6尺3寸)とし、
タテ5間、ヨコ60間の面積を300歩と表します。
この300歩が、1段です。

面積の単位は大きい方から町→段→畝→歩です。
まず村ごとに面積をはかり、
そして次にその土地の価値を上・中・下・下々の
四段階の「在所」で表わします。


それぞれの「在所」が米の単位で表わされます。
例えば、上の土地は1石7斗といった感じです。


米の表示は石→斗→升→合で表わします。
「在所」を米で表わしたものを「石盛」といいます。


また、体積もこれまで枡で計る時、
一つ一つ枡の大きさも違ったのですが、これを「京枡」という
一定の大きさに統一していきます。



そして、先ほど計った面積にこの石盛りをかけます。

「土地面積(段)」×「石盛」=「石高」

となります。



例えば、加賀100万石の前田家とかよくいわれますが、
この100万石というのは
「100万石の米が取れる土地を所有している」と解釈されがちですが、
そうではなくて、
「100万石の米に相当する土地を所有している」ということなんです。

つまり、米=お金のようなものです。
100万円の土地。という感じです。


面積を計った時、田だけでなく、
宅地や畑や家屋の建ってる土地も全て計ると書きました。
それを等級で表わし、そこから米で石高をつけ、面積を掛け合わし石高をだす。


だから、前田家の所有している100万石の中には
田も畑も家屋の土地もすべて含まれています。



のちの家康の時代で
1万石以上所有する家臣を「大名」と呼び、
大名がその土地を治めるので「大名知行制」と呼ばれるようになりますが
秀吉の頃はまだそこまで制度化はしてません。



計られた土地は検地帳に記入され、
一つの土地を「一地」としました。
その一地に、誰か一人、年貢を払う者を記入します。
これを「一地一作人の原則」といいます。



荘園公領制だと、一つの土地に複数人の納税者がいましたが、
秀吉は一つの土地に納税者は一人にします。


つまり、土地の上での税での支配関係は成立しなくなります。



自分の土地を持ちそこから税を治める者を
「本百姓」といい、土地を持たない奴隷的な者たちを「被官」「名子」などと
言いました。本百姓は年貢納入の責任者ということで、
「名請人」ともいわれていました。


そして、御恩の支払い方法は
各村々でまず村の石高を計算し、例えば村高が400石で
村10個を渡しましょうとなると、
その家臣は4000石与えられることになります。



このようにして、「太閤検地」によって
これまでの荘園公領制は終わります。

天下を取っておかしくなって朝鮮出兵も
もう誰にも止められない状態だったとも言われていますが、
秀吉が作った土地制度は近世の徳川政権に受け継がれて、
しっかりとした制度として形になっていきます。




 
 

 
# by odori-akasou | 2012-03-07 11:38 | Trackback | Comments(0)

2012.3.6



『織田信長』


今日は信長の果たせなかった天下統一までの様子を
書いて行きます。

本当は秀吉まで行こうと思いましたが。。

詳しく書いて行こうと思います。


やっぱりこの人すごい人だと改めて思います。
残忍というか、カリスマ性というか。。



1560年の桶狭間の戦いからが
よく描かれてますが、


ココに行きつくまでは、もともと織田家は管領の斯波氏が
尾張の守護だったので、その下で働いてる人で、
織田家の本家が力を持っていて、
信長や信長のお父さんの信秀は
分家だったんです。


信秀の頃は分家と本家の争いという形で、
結局尾張統一まで行けず、信秀は亡くなるんですが、
彼は最後の方で負けかけてるときに、前回も書いたんですが、
隣の美濃の斎藤道山の娘の濃姫を信長の嫁にもらって、
美濃と同盟関係結んでます。


で、戦争中亡くなってしまって、信長に家督が継がれます。
本家が強かったので、斯波氏も弱く、実質は織田本家が尾張を
治めていたみたいな形だったんですが、
信長が最後、本家に対抗し1559年に勝利したので、
尾張を統一しました。


そして、1560年に入っていきます。


駿河、遠江、三河を領有していた今川氏が、
尾張に攻め入ってきます。そのため信長は対抗します。
今川氏3万の兵力に対して織田氏5000人だったそうです。
海道一の弓引きと言われた今川義元に、
それでも信長は勝ってしまいます。


そして、今川義元のもとに人質として取られていた徳川家康と、
清州同盟という同盟を結びます。
家康は解放され、三河を治めていきたいし、
信長はその当時仲が悪くなってしまっていた斎藤氏を攻めたいということで、
利害一致で同盟結びます。


この時朝廷側では1561年三好長慶が、三好三人衆と、
松永久秀にやられてしまいます。
斎藤道三の息子が義竜で、その息子竜の頃に内部でもめていたため、
そこを見て信長攻め入ってしまいます。
そうして、美濃も信長の配下になります。


これが1562年で、このころから「天下布武」という印を掲げて、
天下統一を目指しだしました。


一方三河では一向一揆勢が家康に対して
一揆を起こしていたため、信長は援軍を派遣しています。


1565年、13代将軍義輝が殺害されてしまします。
三好三人衆は将軍を抱えて傀儡政治をスタートさせています。


そんな中、足利義昭が信長にお願いして、
将軍の後見になってもらいたいとし、
信長も利害が一致したため、京都に向かい、15代将軍義昭を立てます。


信長は盛大な宴を開いて、将軍の権威と自分の権威を
見せつけましたが、朝倉景義が上洛をしなかったため、
彼に対して戦を仕掛けていきます。


近江の浅井長政と同盟を結び、信長、家康軍は朝倉に攻めていきます。
しかし、途中で浅井氏が寝返えり、朝倉陣についたため、
1570年、信長、浅井朝倉連合軍を姉川の戦いで破ります。


これに味方したのが、石山本願寺や延暦寺で、
石山本願寺は伊勢の長島の一向宗にも出兵を要請します。
信長は延暦寺を焼き払い、徹底抗戦を行います。


石山本願寺の抵抗は以後10年間、伊勢の長島の一向一揆も1574年まで
抵抗が続きます。


この頃信長と義昭の仲が悪くなっていき、
義昭は信長に対して挙兵します。
しかし信長軍は強く、京都に火を放ったりして、
和睦を求めますが、義昭は言うことを聞きません。
結局、正親町天皇から和睦命令が下り、
信長と義昭は和睦をしました。


義昭の家臣もこのころには信長側についてしまっていました。


一方、三河の支配を任されていた家康に、
武田信玄が攻めます。武田信玄と信長は仲は良好でしたが、
信長3000人の援軍を出して、家康を支えます。
が、家康敗れてしまいます。これが三方原の戦いです。


再び、義昭が二条城に立てこもりますが、信長は破り、
ここに足利室町幕府が終わります。元号も天正と改められます。


信長はその後、朝倉義景を自害させ、
浅井長政と父も自害し、長政に嫁いでいた信長の妹のお市の方は
何とか信長に引き取られました。


1574年には、抵抗していた長島の一揆を兵糧攻めで破ります。


幕府滅亡後、信玄が亡くなり、息子勝頼の移り、
1575年、信長家康軍は兵を整えて、今の名古屋のあたりに出兵します。
このとき、家康軍8000人、信長軍3万だったそうです。

信長は1000丁の鉄砲を家臣に持たせて、
武田勝頼軍を破ります。
この時まだ勝頼は亡くなっていませんが、
信長これで、東海地方も制覇しています。これが、長篠の戦です。


これによって、信長は天皇から官位を授けようといわれますが、断り、
代わりに家臣たちに官位を授けて下さいとして、
松井や、明智光秀たちが官位をもらっています。


そして1575年、右近衛大将を授かり
琵琶湖畔に壮大な天守閣を持つ安土城を築城します。
信長はここに移って、政治をしていきます。


このころ、有力な家臣たちに各地方を担当させていきます。
例えば、羽柴秀吉は毛利氏を、柴田勝家には北陸を
といった感じで、地方の見はりに配備していきます。


また、堺の自治権なども奪い、松井友閑に支配させます。
町を活性化させるため楽市楽座令を出し、
関所も撤廃していきます。


以前抵抗を続けていたのが、石山本願寺でした。
1576年ごろからまた強まり、関東管領の上杉謙信や、
高松の毛利氏も味方についてましたが、

1578年、信長毛利の水軍を破ったため、
石山本願寺は毛利の援助を受けられなくなり
孤立し信長優位について行きます。


1582年、信長は安土城に家康たちを呼び、武田氏征伐などの
祝いの席を設けました。
そこで、家康の接待役に光秀を指名しましたが、
彼の接待が気に食わなかったのか、信長は小姓の蘭丸に
光秀を叩かせていると言われています。


また、秀吉がその時毛利攻めをしてましたが、
援軍を求め、それに対して、光秀に出兵命令をくだし、自分よりも地位の下の
秀吉の下で戦うことが許せなかったのか、
光秀の信長に対しての反逆心が芽生えていきます。


そして、1582年5月末、
信長が次の中国攻めのための準備に京都に向かい、
本能寺に寄宿しだします。
そして、6月2日、光秀は100人ほどの軍と共に、
寝ている信長を襲いかかります。


信長は懸命に戦ったといいますが、手薄状態で、
結局本能寺に火を放って、自害したといわれています。


焼け跡から死体が見つからなかったことから
自殺でなくどこかに逃げてそこで家臣と共に亡くなったとか、
さまざまな説はあります。


こうして、天下統一目の前にして
信長は亡くなってしまいました。





改めて尾張統一から力で制圧していった
信長という人のすごさを感じます。

ここには書かなかったけど、
戦争後たびたび正親町天皇から位を授けたいと
願い出られてるのに、信長は無視したり断ったりしています。


信長という人が、本当に一匹狼で、
人を使わず自分の思う道を突き進んだ人なのかと、
すごく感じました。
ただ、やっぱりそこには多くの人が犠牲になっていて。。


政長のお母さんとか、指を一本一本切られて最後殺されたり、
今じゃ考えられないことをされても許されてる
戦国時代の恐ろしさと、残虐さを
すごい人として英雄化してしまってはいけないんだろうな、って
感じます。。



# by odori-akasou | 2012-03-06 12:41 | Trackback | Comments(0)

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