オドリアカソ

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2012.2.20


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by odori-akasou | 2012-02-20 08:13

2012.2.12



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大阪国立美術館。

ジョアンミロ☆
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by odori-akasou | 2012-02-12 10:17

2002.2.6

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by odori-akasou | 2012-02-06 12:14

2012.2.2






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寒いですね><*
さっき夕飯の買い物行ったら
赤い花が咲いてました^^


では今日のとこデス*




『満州事変(1931年)~第二次世界大戦(1945年)』



蒋介石の南京国民政府が
ようやく国内を統一しだしました。
残るは中国共産党が瑞金に建てた
中華ソヴィエト共和国を倒すのみとなり、
両者の対立が深まる中、

満州に駐屯する関東軍は、
奉天事件に続き、
柳条湖事件を1931年9月18日に起こします。

奉天郊外の南満州鉄道を爆破し、
関東軍が一気に満州を制圧したのです。

張学良は追放され、清朝ラストエンペラーの
「愛新覚羅溥儀」を皇帝に建て、
「五族協和」「王道楽土の建設」をスローガンに、
独立国として満州国を建てます。

この一連の事件を「満州事変」と言います。

以前書かせてもらった「開拓者たち」も
日本から肥料のいらない
豊かな土地を持つ満州に移動して
開拓していく日本人たちの話なので
ちょうどこの頃なんだと思います。


さらには関東軍は1932年、上海事変を起こします。
これは満州から中国の目を反らすためでした。

関東軍の目に余る行為に対して
怒りがおさまらない蒋介石は
国連に「どうにかしてくれ!」と訴えます。
これは1928年に第一次世界大戦の過ちを
おかさないためにもと結ばれたパリ不戦条約の、
「侵略戦争禁止」に違反している!と主張するのです。


国連からイギリスのリットン調査団が
中国、満州、日本それぞれに派遣され、
三か月視察を行った結果、
中国、日本に提案を持ちかけます。

満州国を建国した日本も悪いが、
中国の激しい排日運動が招いた結果でもある。

そのため、満州における日本の利権は認めるが、
満州の主権は中国が持ち、自治政府を建てて、
満州の政治に日本も参加することを提案しました。


かなり日本としては有利な提案でした。
にもかかわらず、日本の代表、松岡洋右は
提案を拒否しました。
そして、国際連盟総会で
「満州国は独立国である(つまり中国の主権を認めない)」
と訴えたのです。

他参加国42国は国連の提案に賛成し、
1国(タイ王国)は棄権、
日本1国のみ反対でした。


日本は結果、国際連盟を脱退し、
国際的に孤立化していくのです。




日本は脱退後、「華北分離政策」を進めていきます。
華北の冀東防共自治政府などを国民政府から分離させて、
親日派中国人に支配させ、
満州国の防波堤を作ろうとして行きます。



しかしこれに対して国民政府の蒋介石は
容認してしまいます。

今は「安内攘外」を優先するためにも、
まだ統一したてで国内がまとまってはいなかったため
国の整備の方を優先したかったのです。
そのため日本との戦争より、
共産党打破に打ち込務ことを優先します。

そして、1933年10月、
中華ソヴィエト共和国へ総攻撃を
スタートさせます。



共産党は拠点としていた瑞金を放棄し
1934年10月、北の陝西省の延安を目指し、
長い道のりを移動します。
1936年10月まで続いたこの共産党員の移動を
「長征」といいます。

長征の途中、1935年遵義会議をひらきます。
そして毛沢東ここで中国共産党の最高指導者になり、
八・一宣言を出します。

「中国同士のけんかはやめよう。
国民政府と力を合わせ、日本と戦おう。」
とした「抗日民族統一戦線」を呼びかけたのです。

次第に中国民衆はこの呼びかけに傾いて行き、
1935年12月9日には一二・九運動
「華北分離反対」「内戦反対」を掲げた
大規模デモが起こります。

しかし蒋介石は応じず、依然として
共産党討伐を仕掛けていきます。




ようやく共産党は陝西省の延安につきます。

国民政府軍、張学良と揚虎城が指揮官として
陝西省の近くの西安から、
なおも攻撃を仕掛けていきます。

しかし、張学良は以前柳条湖で日本軍に痛い目を合わされ、
「抗日一致」に対しては肯定的でした。

彼は攻撃を繰り返すうちに、
共産党と共に日本を討ちたい。
とだんだん気持ちが変わっていきました。



そしてある日国民政府トップの蒋介石が
わざわざ西安に張学良と揚虎城を応援しにきた時、
なんと張学良たちは蒋介石を軟禁してしまいます。

これが、1936年に起きた「西安事件」です。

彼らと蒋介石、さらには中国共産党の周恩来もやって来て、
話し合いがなされます。
内容ははっきり明かされてません。

話し合いの結果、蒋介石はとうとう
「抗日一致」を受け入れてしまいます。


そこから日中戦争まではすぐでした。



1937年7月7日、
中国の盧溝橋付近で、軍事演習中の日本人が
中国人に発砲されたということで、
日本軍がすぐ中国領内を攻め入りました。

1937年、抗日民族統一戦線を掲げ、
第二次国共合作が行われ、
蒋介石は日本に対して盧溝橋事件を皮切りに
徹底抗戦を主張します。

またこれを機に共産党の紅軍は
「八路軍」と名を改めます。



日本軍は最初は快進撃を繰り返します。
1937年12月には南京を占領し、30~40万人の
中国人を虐殺してしまいます。
これが南京大虐殺です。

ただ、この事件は中国のプロパガンダによるもので
人数も本当かどうかわからないという説も出てます。
また、逆に日本人居留民が大量に殺されたという話もあります。
どちらにしても忘れてはいけない悲惨な歴史です。


その後も日本は進行し、武漢も占領します。
蒋介石たちは逃れ、
東南アジアからの武器輸送経路「援蒋ルート」の到着地、
重慶に移ります。



ただ日本としては宣誓布告もなされなかった日中戦争を
終わらせたいという思いがありました。
時の総理大臣、近衛文麿も、
「国民政府対手とせず」と言い、
和平を進めようとします。

しかし国民政府側は全く和平に応じようとしません。


その間、重慶から脱出した汪兆銘は、
南京に「中華民国国民政府」を設立し、
日本との和平交渉を始めます。
日本もこれに応じました。

けれども、所詮「中華民国国民政府」は日本の傀儡国家だとして、
中国国民の支持を仰げず、戦争は続行。



そして、いよいよ1941年12月、

イギリスアメリカも含まれての
「大東亜・太平洋戦争」へと発展していきます。
戦火は中国から東南アジア、および太平洋一帯に拡大していきます。


ここでは中国を中心に絞って進めているので、
あまり深く第二次世界大戦はしませんが、
日本はその後、1945年8月15日敗戦し、
第二次世界大戦は終わっていきます。



以上、
かなり複雑で
混乱していた
第二次世界大戦までが
やっとスッキリしました。

本当はもう少し深く
見ていきたいのですが・・;


中国の移り変わりが
ようやくわかってきました^^*
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by odori-akasou | 2012-02-02 12:20